産後うつ⑥
私の体調不良で少し兄との関わりが増えていましたが、
前投稿に書いたことがきっかけでまた話さなくなり避けるようになりました。
でも、父や夫の説得により保育園に必要な書類はもらえました。
しばらくたち母が今の家の雰囲気が耐えられないだから兄に謝ってほしいと言ってきました。
確かにすごく悪い雰囲気で母、父、夫は過ごしづらいだろうなと思いました。
なぜ私が謝らねければならないのだろうと思いその提案を無視しました。
一方夫は、異常な食欲(夜中にどんぶりでご飯を食べた形跡があったり、柿の種を一袋食べたり…etc)や頻尿、水分をすごく飲んだり、だるそう、イライラが加速していきました。
夫の母も父も糖尿病だったので、早急に病院に行くよう私や私の父母が促しましたが、「大丈夫」と言い続けました。
その頃、夫が北海道からこちらに再びもどれそうという話しを職場からされて私たちは家探しを始めました。
賃貸でもファミリー層向けだと10万前後してしまうため、購入も視野に入れて探し始めました。
家の購入で夫婦で話し合ったりしているとただでさえ慣れない育児やお互いに体調不良、夫は妻の実家で気を遣う日々…
互いにストレスはピークで口論が絶えなくなりました。
そして、夫がキレてしまいました。
きっかけすら覚えてないささいなこと怒鳴り合い、夫が無視をし始め私が「なぜ無視をするのか」と問い続けていると騒ぎを聞きつけた母がきて仲裁にはいりました。
私から事情を聞き黙っている夫に「なんで無視するかだけ教えてあげてくれない?それだけ言えばこの子も気が済むからさ」というと夫は
「うるせーんだよ!くそばばあ!!!」
と母を怒鳴りつけました。
母もぶち切れ
「なんなのよあんたは。出ていけ!」
と…
そうして夫は通帳やカード、現金を持って出ていきました。
そして音信不通になりました。
産後うつ⑤
夜 子供の世話をする夫
私が起きたら交代で寝る。
夫は他人と暮らすストレス
母父特に兄も夫に気を遣う日々
夫は夜中に過食に走り、頻尿やだるさ等体調不良を起こしていました。
兄は部屋に閉じこもるようになりました。
一時は私の体調のことで協力しあった家族も バラバラになっていきました。
保育園の申請時、家族の勤務状況の書類が必要になりました。
母にも父にも兄にも夫にも書類は渡していましたが、提出ギリギリになっても兄が書類をだしてくれませんでした。
父が理由聞いても答えてくれず困っていました。
しばらくしてようやく理由を言ったようですが、私の態度が嫌だから頭下げなきゃ渡さないと言われました。
なんだそれ?!はぁ?今までさんざん我慢してきたのに!
という気持ちが一気に沸き上がり、
兄の部屋に乗り込んでいました。
私「今までどれだけ我慢してきたと思ってんだよ!ふざけるな!」
と怒鳴っていました。
これでさらに関係は悪化し、私の体調もまた悪い方へ戻りつつありました。
一方、夫はコーラ等の炭酸飲料、お菓子が夜中止まらずどんどん体重が増え体調も悪くなりつづけていました。
私や私の母は病院行くようすすめましたが拒否されていました。
1人の体調不良が周りを巻き込んでしまうのだなと気づき、何も考えずゆっくり休むのが難しくなってきました。
産後うつ④
紹介状をもらい総合病院の精神科へ行きました。
産後抑うつ状態つまり産後うつの診断を受けました。
食事が取れず、急激な体重減少、寝れない、死にたい、笑えない、明るい未来が想像つかない、取り乱すという状態。
入院するか市の保健師さんからも言われましたが乳児院に入れるかという話になりました。
入院も乳児院も赤ちゃんと離れるのは嫌だと言いました。
保育園決まるまでは、家族で協力しあい私は投薬と休養で治療することに。
日中は家族が赤ちゃんの世話をし、夜は私がみることになりました。
しかし、赤ちゃんが母乳ミルクをあげてもすぐ泣き参っていました。
1ヶ月が経ち1ヶ月検診のため産院に行きました。
父母が仕事で兄が車で送ってくれ、迎えは母が来てくれることに。
産院では1人で赤ちゃんといることに。
他の検診の方もいて時間がかかりました。
トイレに行こうとたった瞬間目の前が真っ暗になり、冷や汗が流れ始め、息が出来なくなりました。
赤ちゃんを安全な場所に連れていかなきゃと思い、近くの受付まで連れていき息を切らしながら「体調悪い、赤ちゃん、お願いします」と伝えました。
赤ちゃんは預かってもらい、私はベッドのある部屋に横にならしてもらいました。
気がつくと、赤ちゃんは1ヶ月検診を終え母が来ていました。
食事を取っていなかったので貧血をおこしたようでした。
助産師さんが来て体調など色んな話しをしました。
赤ちゃんが母乳+ミルクあげてもすぐ泣くことを伝えると、私の母乳の出があまりよくなく最初に言われたミルク50mlでは足りないようでした。
ミルクは余っても飲めるだけのましていいと言われ赤ちゃんにあげるとごくごくのみ100ml以上飲み寝る時間が増えました。
赤ちゃんの寝る時間が増えると私の寝る時間も増え少しずつ食事がとれるようになりました。
そのころ夫もようやく育休がとれ私の実家で同居することになりました。
母父兄は仕事に行き、夜は夫が赤ちゃんの世話をし昼間は私が世話をすることになりました。
夜寝れるようになり、散歩程度の外出もできるようになりました。
しかし、夫は私の家族との同居がかなりストレスになっているようでした。
産後うつ③
赤ちゃんの黄疸は1日で基準値になり、再び同室に。
私が泣いたりしていたので助産師さんも気にして見回ってくれました。
少しずつ赤ちゃんの世話にも慣れていき、
あっという間に退院に。
退院時に母乳+ミルクの混合だったので助産師さんからは「赤ちゃんはどんどん飲む量ふえるけど、母乳もこれからたくさんでるようになるからミルクは50mlで大丈夫かな~」と言われました。
北海道には1ヶ月検診後に戻ろうと思っていてそれまでは実家にいることにしていました。
退院初日は祝日で母が休みでいました。
母が赤ちゃんを見てくれ寝たりして過ごしました。
翌日、夜泣きなどの対応し起きたらすでに母や父は会社に行っていました。
しばらくすると、突然恐怖感に襲われました。
今倒れたら赤ちゃんどうなる?死ぬ?
寝てる間に万が一転がって窒素したら?
SIDSで死んでしまったら?
怖い怖い怖い怖い
助けて助けて助けて助けて
1人じゃ嫌だ
そんな思いが駆け巡り気がついたら過呼吸に。
まずい。倒れる。助け呼ばなきゃ。
と思い、母に電話して「助けて」とだけ伝えました。
少しして兄が来ました。
(以前の投稿にあるように兄弟仲は悪く、物心つくころには兄とは口を聞いておらず、避けていました。兄も私がいても無視でした。もちろん赤ちゃんにも会わせていないし名前も教えていませんでした。)
兄「おいおい、大丈夫か?ちょっと待ってろ。」
紙袋を持ってきてくれました。
兄「息吐け。ゆっくり吐け。赤ん坊は?」
息ができず話せなかったので指をさして赤ちゃんの居場所を伝えました。
兄「寝てるから大丈夫か。大丈夫だから落ち着け」
しばらくして落ち着いてきました。
兄は父や母と連絡取り合ってくれました。
父が早く帰ってきてくれることになりました。
しばらく兄と気まずい時間が流れ、
兄「リビングにいるからなんかあったら声かけろよ」
と言い去っていきました。
私は過呼吸後の脱力感と手足のしびれでぐったりしてました。
父が帰ってくると私はいつも通りになりました。
頼れる人がいる安心しました。
しかし、夜みんなが寝てしまうと再び恐怖感と過呼吸に。
母や父に起きてもらって落ち着いたら寝てもらいました。
夫は北海道。
母父兄は仕事、同居祖母は高齢。
日中に過呼吸起こし、取り乱すことが増え、食事は口にも入れられず、いっそ死んで楽になりたいとも思いました。
見かねた母が市と産院に相談するとすぐ保健師さんが来てくれました。
市の保健師によると
日中の対応として
・保育園(一時保育や緊急一時保育を含む)
・児童館等の施設
の利用を進めてくれました。
また、
・乳児院
もあります。と言われました。
産院では
・産後のメンタルに強い病院に紹介状を書く
・赤ちゃんと共に入院してもいい
という対応してくれました。
家族と話し合い、
・夫に育休を取ってもらう
・育休取れるまで父母兄が上手く勤務調整し誰かがいるようにする
・保育園の手続きをする
・私は通院する
ことになりました。
産後うつ②
前日(予定日1日経過)では全く子宮口が開いておらず先生にグリグリしてもらいました。
翌日。陣痛は朝方4時に始まり腰の痛みが定期的に起こり寝ていられないような状態でした。
ただ、お腹に張りや痛みはなく腰痛?くらいに思ってました。
午前9時頃、痛みに耐えられなくなり産院に電話「10分切るまで様子みてね。お風呂に浸かったり、食べれるなら今のうちに何か食べてね。」
と言われお風呂入ったり、うどんを食べて過ごしました。
午後2時過ぎもう耐えられなくなり、電話し産院へ。
前日に開いてなかった子宮口が7cmになっておりそのまま産室へ。
夫立ち会いの元2時間後に男の子が産まれました。
会陰は少し裂けたものの切開はせず、産院ついて2時間の出産に助産師さんや家族、出産経験ある友人に「安産だ」と言われました。
安産ではありますが、ものすごく痛かったし会陰の裂傷も痛みはありました。
私は安産安産言われ過ぎて
楽だと言われてると感じるようなりました。
痛かった、苦しかったーと言っても
「でも、安産でしょ? 私の時は~」
と言われると無性にイライラしてしまいました。
その日赤ちゃんは新生児室に預かりとなり、私は部屋が空いておらず当直室で一夜過ごすことになりました。
当直室は机や資料や棚がありあまり落ち着いては過ごせませんでした。
次の日は一般の入院部屋で赤ちゃんと過ごしました。
夜も一緒に過ごすとき助産師に何かある?と聞かれ
「少し不安です…」と言うと「え?何が不安なわけ?」と言われ不安に思うのは私だけ?息子と過ごすのに不安っておかしい?
そう思ってしまいました。
母乳+用意されたミルクをあげても2時間おき。
前日の寝不足もあってすごく眠くて辛かったです。
翌日の朝検診のため赤ちゃんを迎えに来た助産師さんに「初めて過ごす夜に1回も助産師呼ばないですごいね。頑張ったね。」と言われ、不安に思うのは変だから頑張なきゃと思ってましたが呼んで良かったんだーと思いました。
そして、赤ちゃんってこんなに寝ないしふにゃふにゃだし可愛いと言うより怖いなと感じ一緒に寝るの嫌だなと思ってしまいました。
検診から赤ちゃんがなかなか帰ってこず、
助産師さんが部屋に来て
「赤ちゃんね、ほんの少し黄疸の値が高いから1日光線治療するね。母乳の時つれてくるからね。」
私は、あぁ赤ちゃんに対して良い感情抱かなかったからバチがあたった私のせいだ私のせいだ私のせいだと頭の中がぐるぐるし号泣してしまいました。
助産師さんは慰めてくれましたが、自分を責め続けました。
赤ちゃんは目に光線が当たらないよう覆われ、オムツ1枚で青い光の箱の中にいました。
それを見て可哀想と思い、赤ちゃんの状況と自分の精神的にも誰にも会いたくなく、その日来てくれる予定の友人と義母に来ないでほしいと伝えました。
ところが、義母はうちの実家に押しかけて何故かうちの祖母を連れてやって来ました。
夫に感情的になり「断ったのにしかも実家にアポ無しで押しかけてありえない」と怒ってしまい、夫が義母に伝えると部屋に入るなりおめでとうもなく「これお祝い」と祝儀袋もベッドになげ帰りました。
私はその日からよく泣くようになり、食事があまり食べられないようになりました。
産後うつ①
北海道から出産予定日2カ月前に里帰りをし友人と会ったり、散歩したりと出産に向けて過ごしていました。
「ハイリスク妊婦」
という扱いでした。
薬も当時は、レクサプロ・ソラナックス・マイスリーを飲んでいましたが、
妊娠判明後はマイスリーのみになりました。
のちに、今の先生から「私ならレクサプロを突然やめさせないし、そのまま投薬し続けたな~赤ちゃんに薬が行くことはほんのわずかだからね~」と言われたので産後うつ発症の要因の一つに突然の減薬があったかもしれません。(これは私の場合です。もし薬飲んでいる方いたら医師と相談してください。赤ちゃんに禁忌の薬もあります。)
産後うつになる可能性が高いということは出産前から言われていました。
特に妊娠期間中に精神的に追い込まれることもなく、
きっとほかの妊婦さんと同じく
赤ちゃんに会いたいなー
陣痛痛いのかな?
等という気持ちで過ごしていました。
出産予定日1カ月前。
友人と食事に行き移動中、軽い腹痛と下半身から何かが滴っているのを感じました。
トイレに行くと大量に出血…
その場で産院に電話し、母に迎えに来てもらいすぐ行くことに。
思ったより出血が多くもしかしたらこのままお腹が定期的に張っているのでこのまま陣痛になったり緊急帝王切開になるかもしれないと言われました。
点滴をして安静にしていると翌日には出血も張りもおさまりしばらく安静にといわれ1週間ほど入院しました。
いろんな助産師さんから
「出血多かったから赤ちゃんダメかと思ったけど心音きけた時はホッとしたよ」
「出産する部屋準備してたけどよかったね」
と言われ、安心と同時に怖くなったことを覚えています。
点滴が腕の関節に入らず手首も3回失敗して入れる人が変わってようやく入ったのも嫌だなと感じていました。
さらに、産院からは「予定日前に生まれと思うよ」と言われたので緊張しつつ
1週間後退院しましたがまた出血したら…と思いながら過ごしました。
しかし出産予定日当日になっても生まれることはなく予定日2日後に陣痛が始まりました。
体調不良と適応障害
適応障害になったのは4年ほど前…
大学卒業後すぐに結婚。
夕方5時から9時までの授業を4カ月受け、フルタイムの仕事に就きました。
1年後に正社員になり勤務時間が変わり朝8時から夕方4時までに。
自転車通勤で片道4キロ。電車の方が時間がかかるので自転車の方が楽でした。
7時に家を出るので朝は早く、加えて2週間に1度土曜出勤があり週6勤務。
さらに、完璧にしなくてはならないという謎の使命感から家事特に料理は一汁三菜を心がけ常に緊張しっぱなしでした。
幸いパニック障害の方は安定し朝1錠のソラナックスとパニックが起こりそうな場面の前に頓服ソラナックスで大丈夫でした。
ところがある日突然出勤前、体が動かない・涙が出るという症状が起きました。
パニック障害とは全く違う症状。
その日休みの連絡を入れると落ち着きました。
熱が出ても仕事に行きほとんど休んだことがなかったので自分にショックでした。
翌日からは出勤できたものの仕事中に涙が止まらなくなり、早朝(3時ごろ)目覚めて寝れないことが増えました。
上司が心配し近くの病院に連れて行ってくれましたが、内科的には異常なしでした。
パニック障害の治療で通院が2カ月に1回になっていたので発症後1か月後経った頃通院日に相談すると医師から「適応障害なので仕事休んでください。診断書を出します。」との診断。
1回休んでしまうとなかなか出勤できなくなり、8カ月も休んでしまいました。
その後はパートで復帰しました。
しばらく週3回勤務。
半年後に夫が北海道に単身赴任しその後私の妊娠が分かり、退職し私も北海道へ。
妊娠直前まで北海道にいました。
妊娠中は北海道でのんびり過ごしました。関東と違い電車もほとんど走ってないようなところで人もあまりおらず、スーパーも遠いため平日は少しさみしい生活でしたが穏やかな気持ちでいれました。
適応障害だと実感していることは、パニック障害と産後うつ、うつ病に比べ期間が短く職場を意識しなければ普通の日常生活を送れていました。
私は簡単に仕事を休みその後辞めましたが、辞められない・休めなかったらかなり苦しんでいたと思います。
責任があったり、病気を知られたくなかったりで休むことを躊躇する方もいらっしゃると思います。
でもすぐに診断書もらい休んでほしいなと思います。
無理している時間が長いほど悪化するリスクもありますし、悪化すると治りも遅くなります。
薬に関して依存性があり嫌煙されることもありますが、私はかなり依存していたソラナックスをいまではほとんど飲んでいません。
医師の指示に従い、自分で飲んだり飲まなかったりするこはせずに正しく薬と付き合っていたからだと思います。
適応障害からうつに移行することもあるようなので、適応障害の可能性があったら早急に治療するほうが良いのではないかと個人的に思ってます。
また、適応障害は職場だけではなく結婚や引っ越し等状況が変わってもなることがあるようなので自分の体調の変化に気づくことも大切ですね。